らーぜ
□絵日傘をかなたの岸の草になげ わたる小川よ春の水ぬるき
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夢を見た。
ありがちな、三文小説や昼ドラみたいな、夢を見た。
春の日射しが強い中、草原みたいな花畑みたいなところに小川が流れてた。澄んだ水はきらきらしてて眩しくて、あの人は絵のついた白い日傘をさして白いワンピースを着てた。くるぶしまで川に入って笑ってた。俺はそんな彼女を少し離れたところから見てて、彼女は俺に気付くと日傘を投げ出して走ってこっちにきたんだ。
日傘は風に煽られて、一瞬ひらりと揺れて川に落ちた。
あまりに綺麗であまりに幸せで、涙が出た。
なのに夢から醒めて俺は哀しくて泣いたんだ。
夢があまりにも綺麗だったから。夢があまりにも幸せだったから。夢が思い出が記憶が、あの人が、綺麗であればあるだけ幸せであればあるだけ、俺は、苦しく虚しく切なく哀しくなっていく。
幸せな夢も綺麗な思い出もなくたってよかった。あの人さえいてくれれば、現実がどんなだって受け入れられるのに。
どうして夢の中は春だったんだろう。
暖房を消して何時間も経った凍えそうに寒い部屋の中で、そんなことを考える。起き上がったままの形でベッドに座って、閉ざされたカーテン越しに外を見る。真っ暗で何も見えない。少しの光も入ってこないのは、まだ夜更けだからかもしれない。
冷え始めた手でカーテンを引いて驚いた。
アスファルトや塀の上、それぞれの家に植えられた背の低い細い木々に積もった白い雪。しんしん、と本当に音がするんじゃないかって思うくらいの静けさの中で、それは降ってた。
――雪が降ったら、部活は休みになる?
――グラウンドが使えなくなったら。
――じゃあ、積もったら一緒に遊ぼうね。雪だるま作ったりして。
黒いコートを着たあの人は俺の隣で、楽しそうに笑ってたのに。
なぁ、雪が降ってるよ。外、雪が積もってる。小さい雪だるまだったら作れるからさ、部活だって休みだから、休みじゃなくたって休むから、なぁだから、雪だるま作ろうって言ってくれよ。そう言って俺の隣に居てくれよ。
光を吸った雪の白さが目に痛い。染みるように射すように、目をその奥を記憶をあの夢を、刺激する。
雪なんて嫌いだ。白なんて見たくない。春なんか来なくていい。夏も秋もまた巡る冬も、何も欲しくない。
帰りたい。戻りたい。あの人のいる世界に還りたい。
なのに、雪が降って雪が積もって雪がきらきら光ってて、綺麗なんだ。あの人の居ない世界なのにびっくりするくらい綺麗なんだ。見せてやりたいと思うほどに、目の前に広がる景色が綺麗なんだ。
そんなこと有り得ないはずなのに。
あの人のいない時間を生きながら、
『見せてやりたい』
と何回心の中でつぶやいたら死ねるだろう。何度思ったら死ねるだろう。
俺には果てしなく思える。
これから何をしても何を見ても誰を好きになっても、あの人の姿や声を思い描けなくなっても、俺は思うよ。
もし、生きていてくれたなら――。
できるなら、溶けてしまいたい。この雪と一緒に夜が明けたら跡形もなく消えてしまいたい。できるなら、そう、するけど。
俺は知ってる。俺が雪になれないことも、雪みたいに溶けて消えられないことも。あの人は星になったのではなく、白い粉になってしまったことも。そしてそれがもう過去にあって、俺の手出しのできることではないことも。俺自身が彼女の手出しのできない未来にいることも。
俺は生きなきゃいけない。あの人が生きられなかった数十年を。 生きて、今日を生きて、明日を生きて、明後日を明々後日を、生きて。
そしていつか死ねたら数十年を話して聞かせてやるんだ。春の日で待つあの人に。
でも今日だけは。せめて夜が明けるまでは。雪が溶けて消えるまでは。
絶望の淵で泣かせて。
fin
題名引用:与謝野晶子