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□明日会えるという奇跡
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 好きな人がいました。私は藤代くんのことが好きでした。女の子がほとんどいない、不良ばかりのこの学校で頑張ろうって思えたのは、きっと藤代くんがいたから。




 父親と娘という最小限の家族。手に職をつけてきちんと就職したい。貧乏ながら必死に育ててくれたお父さんに、親孝行したい。私に思いつくのは工業高校に通ってお父さんのように働くことだった。お父さんの反対を押し切って入学した黒咲は、私が思うよりずっと私にとって厳しい学校だった。

 確かに恐い学校ではあった。恐い男の子にからかわれることもたくさんあった。けれど女の子である私が喧嘩に巻き込まれるようなことはなく、数少ない女の子はみんな仲が良かった。そんなことよりも何よりも、数学も理科も全然出来ない私が工業の勉強をするのだから誰よりも頑張らなくてはならなかった。さらには女の子の中でも小柄である私は、実技も不得手で、工具などの道具を運ぶのも一苦労だった。


 そんな私を気にかけてくれたのが、藤代くんだった。私が当番の日、実技室に運ぶものがいくつか先に運んであったり、授業の後にはいくつかしまってあったり、工具が多い日は教室のドアが開け放してあったり。始めはラッキーだと思っていたそれらが続くうちに、私の前にはいつも藤代くんがいることに気がついた。そうやって自然に優しくしてくれた。甘やかすんじゃなくて、頑張る分をきちんと残してくれた。

――藤代くん!

 当番の日、いつもより早足で歩いた。前を歩く藤代くんに追いつきたかった。

――あ

 振り返った藤代くんは私が持っていくはずのものをいくつか持っていた。

――あの、いつもありがとう。

 藤代くんの歩幅が、私のそれと並ぶ。

――いつもって?

 同じ歩幅。同じ速度。私の心臓は今、どうしてこんなにもうるさいのだろう。

――こっそり手伝ってくれてるから

――別に、ついでだし

 実技室の木の机に荷物を下ろすと私は藤代くんを見上げた。

――でも、私は嬉しかったし、とっても助かったんだよ

 藤代くんは何も言わない。

――だから、ありがとう

 本当に嬉しかった。頑張らなきゃ、きちんとやらなきゃ。自分で頑張ると決めたことが義務みたいになってどんどん苦しくなっていった。その中で手を貸してくれる藤代くんの存在が、私にはたまらなく嬉しかった。全部してくれるんじゃなくて、きちんと残されている私の分が、頑張れば出来るって応援してもらえてるみたいに思えた。

――お前、何で黒咲に来たんだよ

 藤代くんは机に座る。思えばこうして藤代くんと話をするのは初めてだ。

――不良ばっかで、男ばっかの黒咲によ

 藤代くんの訊き方は優しかった。他にもたくさんあっただろうにって、言わなかったけど、藤代くんがそう思ってるのはわかった。私も思う。どうしてここを選んだろうって考えることは少なくない。でも間違ってなんかない。
 朝の学校。藤代くんと私のふたりだけの実技室。ぽつりぽつりとお父さんのことなんかを話すと、何も言わずに聞いてくれた。たまにそうか、と少し笑って。




 その日を境に何かが変わった、なんてことはない。相変わらず藤代くんは何も言わずに手伝ってくれたし、あれ以来私も改めてありがとう、なんて口にしなかった。そうすることを藤代くんが望んでいるような気がしたから。ただ、ほんの少しだけ、藤代くんと近くなったような感じがした。特別な会話は何もないけれど、挨拶は交わすようになった。と言っても、私が藤代くんに挨拶するようになって、藤代くんがそれに返すというそれだけのことだったけれど。


 この一年ちょっとの間、藤代くんと私が交わした言葉なんてたかが知れてる。でも私の頭の中ではそれが膨大な記憶になっていた。どんな出来事よりも詳しく鮮明に、その時のことをたくさんの情報に小分けして脳内にしまってある。勉強の合間に、友達と話している時に、ふとした瞬間に、何度も何度も思い出していた。
 藤代くんばかり見てしまうようになって、目が合うと嬉しかった。挨拶するとどきどきした。話しができたらそれだけで何日も幸せで、藤代くんが笑ってくれると心臓がぎゅっとした。わかっていた。私は、藤代くんが好きだった。今も、好き。

 こんなに好きだったのに、好きなのに、どうして何もしなかったんだろう。もっと頑張って話しかけなかったんだろう。藤代くんがうんざりするくらい「ありがとう」って言わなかったんだろう。聞いてほしいことがいっぱいある。助けてほしいことがたくさんある。なのに、藤代くんがいない。今なら頑張れるって、もう遅いのに。





明日会えるという奇跡



 最後の日「じゃあな」って藤代くんは言った。私は「また明日ね」って言った。おうって言わなかったのは、最後だってわかってたからだったんだ。


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