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□恋は当分お休みします
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途方に暮れた。このまま何も考えずにただただ座っていたかった。けれど私に注がれる視線は容赦なく、人が通り過ぎてもまたやってきた人の視線が同じように私を捉えた。早く片付けてこの場を立ち去りたい。
「久しぶり」
私の手とは別の手が工具箱に触れた。
「ふ、じしろくん」
しゃがんで目を合わせてくれたその人は、さっきまで私が必死に追いかけていた人。
「すげえ音したから何かあったのかと思った」
拓海、と黒ずくめの男の人が藤代くんを呼んだ。
「ごめん、大丈夫だから」
藤代くんは私の言葉を無視して、後で行く、とその人に言う。
「いいよ、藤代くん」
藤代くんは何も言わず、一緒に散らばった工具を集めてくれた。
「何でお前工具持ってんの?」
「これは、家で手入れしようと」
思って、は言葉にならなかった。藤代くんがゆっくりと頬を緩ませて
「お前らしい」
と笑ったから。こんな藤代くんは知らないと思うのに、私の心臓はしっかり反応した。心臓がぎゅっとなる。
「何で」
どうして藤代くんがこんな格好をしているのか、私にはわからない。
「何で藤代くんが、武装にいるの?」
長い沈黙。藤代くんは私の顔さえ見ない。
「頑張ってんだな」
しばらくして口を開いた藤代くんは、私の手を見ていた。途端に恥ずかしくなって手を隠してしまう。私の手はもう女の子のそれとは違うものになっていたから。
「隠さなくていいよ」
こんな気持ちになるのは初めてじゃない。藤代くんが黒咲にいた時だって何度もあった。藤代くんに会いに来る可愛い女の子たちと出くわす度に、汚れたツナギ姿の自分が恥ずかしく思えて消えてしまいたくなった。
「頑張ってる人間の手だって」
そう言って藤代くんは私の手を引っ張った。その藤代くんの手は、私のそれよりもずっと頑張っている人のものだった。自分の思うまっすぐに従って、ただただ自然に過ごしていた藤代くん。静かでゆったりと生きているような、そんな人。目の前にいるのは、紛れもなく私の知っている藤代くんで、でもやっぱり違って。
「もう落とすなよ」
工具箱のふたを閉じると、藤代くんはじゃあな、と手を上げた。くるりと反転すれば、背中のドクロが見えた。言いたいことが山ほどある。こんな風に助けてほしいって思うことが、きっとこれから山ほどある。きちんと乗り越えていきたい。藤代くんがいなくても頑張れる自分になりたい。藤代くんがいたらって考えるような自分でいたくない。だったら、今すべきことがあるはず。
「待って、待って!」
遠くなる背中のドクロを思いっきり掴んで引き寄せた。
「もう、会えないんでしょ?」
ドクロに顔を寄せてそのまま言った。
「遠くに行く訳じゃないし、この町にいるんだからさ」
そんなことないって藤代くんは言うけれど。
「私を見かけても、藤代くんはもう何も言わないんでしょ?」
こんなのはこれが最後だって思っているくせに。
「私が藤代くんって呼んでも振り返ってくれないんでしょ?」
だったら見て見ぬ振りしてくれたらよかった。
「おはようって言っても、おうって返してくれないんでしょ?」
関係ないって突き放してほしかった。
「そんなの、会えないのと一緒だよ」
でも嬉しかったの。とても、とても嬉しかったの。
この人が選んだ道に私はいられない。たくさんの幸せをくれたこの人の何の足しにもなれない。苦しいけど、それが事実。
「藤代くん、好き」
息を吸った藤代くんの背中が動いた。
「俺に、お前は」
「もったいない、とか言ったらぶっ殺すから」
そんな言葉はいらない。たとえそれが本当だったとしても、そんな言葉なんかじゃ諦めきれない。藤代くんは私の言葉に少し笑って
「ごめんな」
と言った。それを聞いた私は置きっぱなしの工具箱を持って反対方向へ走り出した。好きな人にとって最後の自分の記憶が泣き顔なんて、死んでも嫌だったから。
恋は当分お休みします
もっと早くあの言葉を言えていたら、何かが変わっただろうか。
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