時に徳川十一代将軍家斉の治世、賄政治で悪名高い老中田沼意次が失脚し、新たに松平正宜が老中首座に就きますと、突然に天変地異の如き大改革が始まります。

所謂『寛政の改革』と云うやつです。

尚武廉恥の心を育み、奢侈に耽る事を戒め、風紀粛正を図るを旨としたのが、この寛政の改革です。

諸大名将軍謁見の際の装束を、贅沢な熨斗目裃から質朴な羽織袴へ改め。
また庶民の衣類も、贅沢な絹織物や染め物を禁じ。
また大金が乱れ飛ぶ岡場所(今風に云うと風俗店でしょうか)を禁じ。

相次ぐ大火や飢饉に備える為に、倹約に努め幕府財政を立て直し…

と、まぁそんな大義名分を打ち出した訳なんですが、これが江戸の庶民から反感を買う事頻りだった訳です。

時の将軍家斉は、西陣産の贅沢な絹織物をこよなく愛し常にこれ着て…
囲った妾は数知れず、確かな数でも四十人は下らない…
産まれた子供に至っては、確かな数でも五十人は下らない…

幕府財政立て直しとはつまり、衣装代と養育費の捻出の為かと、陰口を叩かれるのも無理からぬお話しで。そんな中…

御公儀の御政道を非難する事を憚らず、道を誤る御政道を反故にして、正道を歩まんとする侠気ある江戸っ子は、命を盾に洒落を決め込みました。

一見質朴な姿に改めたように見せ掛けて、羽裏や襦袢をこれでもかとばかりに派手に染め上げたのです。

幕令に背けば首が飛ぶ時代。
筋の通らぬ幕令に反抗し、侠気ある江戸っ子達の命を懸けた洒落が始まりました。

そして、そんな江戸っ子の心意気に感じ入り、意気に応えたのが、勇気ある染め織り職人達でした。
禁じられた派手な染めを羽裏や襦袢に描き、一見地味な無地に見えながら実は繊細な柄に織られた生地を織り上げ、命を懸けた洒落を支えたのです。


そうです。
彼等江戸っ子や染め織り職人の『生き様』や『心意気』を指して、「男の生き様だねぇ」「意気に感じる男だねぇ」と持て囃したその言葉…
生き様のいき、心意気のいき。
それが『粋』の源流なのです。


喜多川守貞は著作『近世風俗志』の中で、『粋』とは書かず『意気』と書いています。

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