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□心を食らう生き物
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『死にたくなくば逃げ回れ。10秒間だけ待ってやる』



世にも絶望的な言葉を聞いた、あれが確か2時間半前のこと。
とっくに時間の感覚なんて失っていたと思ったんだけど、頭上で輝く月が方角ついでに大方の時刻を教えてくれた。有難い、知識に無駄なんて一つもなかったのね。



「――考え事たァ余裕だな」



ああそして、あの大きな月をその背に背負うその人の何と威圧的なことか。
進路も退路も絶たれた私の目の前に文字通り聳え立つのは、この闇に溶け込んでしまいそうな程の漆黒の衣を纏う男。ただ生来の赤い髪ばかりが夜に浮かび、ついでに見下ろす鋭い眼光もギラギラと物騒すぎる光を放っている。
貴方の瞳に恋してるって言ったのは、一体何番目の愛人だったっけ。私にはそれが凶器にしか見えないのですが。

と、そんなことをぼんやり(でもないんだけど)考えていたら、その男の手元でガチャリと重い音が聞こえた。しかし男が動いた気配はない。
だけど何か――そう、本能とも言える何かが警鐘を鳴らしている。逃げろ、さもなくば――



「…死ぬぞ」

「………っ!!!」



音もなく向けられたのは鈍い光を放つ銃口で。やっぱり私の勘は正しかった、と、自分を誉める暇すら与えられずに一目散に地を蹴り逃げる。
どこまでも続いているような竹やぶを縦横無尽に駆け抜ける。足元で腐り始めた笹の葉がカサコソの悲しい音を立てた。



「オラオラオラオラ!とっとと逃げろ、もしくは闘え!」

「(そんな、無茶、なっ!)」



愉しそうにその長い足でもって歩みを進めつつ、一歩辺り3発の銃弾を打ち込んでくる男。女子供が相手だろうと容赦しないその様から彼が聖職者だと一体誰が思いつくだろう。

背後からの銃撃の嵐を必死に掻い潜りつつ夜の闇を掻ける。一歩間違えれば間違いなくあの世逝きなこの状況で(実際さっき一発頬を掠った)(絶対死んだと思った)、無機質な光を放つ月ばかりが私たちを見下ろしていた。因みに私たちというのは、私と、背後から追い駆けて(いや追い歩いて?)来る男と、それから。



『あー、見っけ』

「!!!」



背後ばかりを気にして逃げていたものだから、前方に迫る大きな影に気付けなかった。目標物まであと数メートルというところ、何とか勢いを殺して立ち止まる。



『大変だなぁお前も。マリアンの弟子なんかになっちまったばっかりに』

「同情するなら助けろっつーの!」



人ならざるその生物――通称AKUMAと呼ばれるそのイキモノ(正しくは生き物じゃないらしいんだけど)は、やけに可愛らしい声でもってそう言って見せた。
勿論言ってみせるだけで、その表情からは憐れみだとかそんなものは一切汲み取れない。元が冷酷で非人格的だからなのか、それとも「改造」したのが背後の鬼畜だからかは――原因は定かではないんだけど。

私の吠える声も気にせずに改造アクマは無遠慮に攻撃の構えを見せる。げっと頬が引き攣るのを感じた。振り向いたところで逃げ道はないのだ。何故って後ろには、あの赤髪の悪魔がいるから、で。



『じゃあなニンゲン。恨むならマリアンを恨んで死ねよ』

「う、えっ!ちょちょちょちょっと待――」



キュィィンと光が集まる音がして、私は慌てて両手を差し伸べた。しかしそこは冷酷な兵器の性、ヒトたる私の言葉など始めから届いているはずもなく。



「(…し、死ぬ…っ!)」



次第に大きくなる光の弾に、リアルな死を感じてしまう。ああいやだ、こんなところで死にたくなんて――

直後響いた轟音と巻き起こった爆風に、何かが脆く崩れるような音がした。木の葉のように情けなく宙を舞った私の体はきっとこの後地面に叩きつけられるのだろう。
視界が反転して背後の男を目端に捕らえる。コートのポケットに手を突っ込んだまま微動だにしない傍若無人な態度は、私が死に掛けていても変わらないのか。空しさだけがこの胸を焼いて、真っ白な光が私を包み込んだ。

天涯孤独な私がこの道を選んだのは、その先に光を見たからだったのに。



「(ああ、今は)」



ただ、空が暗い。









***



――その日、豪奢な作りのその扉を長身の男が潜り抜けたのは夜も更けてからのことだった。
無遠慮なノックを迎え入れたのはスキンヘッドの大男…と、見紛うような体格の女性で、二、三言男と言葉を交わした彼女は慌てた様子で奥の間へと使いを向けた。



「!お待ち下さいマリアン様、一体どこへ――」

「寝室を借りる。悪いがアニタには直接そっちで会う」



使いの帰るのも待たず、我が物顔でずかずかと歩を進める男。その衣装はいつもの如く高級な素材で出来ているようだったが、所々汚れているような印象だった。
しかしそれ以上に人々を驚かせたのは、その腕に抱えた“荷物”の存在で。


その長い足で寝室の扉をぶち破り、薄暗い部屋へと押し入る男。勿論其処が来客用の部屋で、しかも専ら自分のために宛がわれた場所だと知っているからこその行動である…はずである。
高級な調度品で飾られた部屋は彼の好みに合っている。しかし今はそれすらも構うことなく部屋を突き進み、ほぼその中央に設置されたこれまた豪奢な寝床へと男は腕に抱えた“荷物”を放り投げた。



「…う…っ」



ふかふかの羽毛に埋もれる瞬間、“荷物”が小さく呻き声を上げる。それを聞いた男は不快気に眉を顰めたが、その声が痛めた箇所を下敷きにしてしまったためのものと気付くと溜め息を吐いてそれを転がしてやった。



「――まあクロス様!」



と、そこへ落ち着いた玲瑯な美しい声が響く。振り向けば戸口に現れたのは絶世の美女で、普段高く結われている長く美しい黒髪は今は首の後ろで緩く纏められ、彼女が就寝しようとしていたことが見受けられた。纏うのは上等の寝着で、その上には絹の肩掛けをふわりと巻いている。
彼女が手にした蝋燭が室内を照らせば、男の赤い髪がぼんやりとそこに浮かび上がった。寝台に腰掛けるようにしていた男は、女に気付くと一瞬ふっと目元を緩め微笑した。が、次の瞬間には元の険しい顔つきに戻っている。



「どうかなされたのですか?今宵は戻らないと聞いていましたが」

「この馬鹿がちょいとやらかしてな…――どうやら腕を折ったらしいんだが」



そう、男が担いできた“荷物”は、彼が一応弟子としている少女だった。
一目で上等と分かる羽毛布団に埋もれている様はまるでボロ切れのようで、着古した黒いワンピースからはひょろひょろした手足が覗いている。先ほどの竹やぶで負ったらしい傷は生々しく、靴を履いていたにも関わらず皮膚を切り裂いてはじんわりと血を滲ませていた。

そうして極めつけはその腕である。胸の上に乗せられるようにして置かれた右手は赤紫に腫れ上がり、熱を持って少女を苦しめている。患部が痛むのか少女はうんうんと魘されたような声を上げ、また苦しそうに胸は小さく上下していた。



「…クロス様」

「何だ」

「何度も言いましたが、この子はまだ年端も行かぬ女子ですよ。いくら修行とは言えこのような無茶はなさらぬようにと」



女がその美しい鼻梁に怒りの色を載せて男を睨み上げる。普段人外の者と闘っている男もその表情にはややたじろぎを見せるが、説教はもういらんと言わんばかりに手を振ってそれを制した。



「俺の鞄にいくらか漢方の残りがある」

「はい」

「それを適当に混ぜて飲ませりゃどうにかなんだろ」

「………」



薬も毒になるということが、この男には分からないのだろうか。女がツッコミを入れる前に男は立ち上がり、持っていた荷物から無造作に小瓶を取り出したかと思えば、その言葉通り「適当に」混ぜ合わせてみせ。



「…飲め」

「………」



気絶する少女の口元にそれを無理矢理持っていく。勿論少女の方は意識がないのだから、飲めるはずもないのだが。



「…てめェクソガキ…師匠の言うことが聞けんのか」

「クロス様、この子は気絶して」

「アニタは黙ってろ」



強い口調で女を黙らせ、ついでに無理で道理までも押し通そうとする男。薄紙の上に乗せた色々と危険な自称漢方薬を少女の口元に寄せ、唇を摘み上げると無理矢理にそれを引っ張った。



「――んが!」

「オラ薬だ」

「…ん、ぐ」

「水なんてねェぞ。飲み込め」



挙句の果てには粉薬を水なしで飲ませるという荒業まで見せる始末。隣に座っていた女がかける言葉もなく呆然とその様子を見守っていれば――



「…ぐ…!?」

――ドカァァン!!!



…擬音にすればまさにそれくらいの衝撃を受け、少女は顔を真っ赤にして倒れこんだ。否、確かに先ほどまでも倒れこんではいなかったのだが、今度は痛みというよりも薬による急激な体温の上昇により昏倒するというような感じであった。



「…これで三日は眠んだろ」

「クロス様!!」



しかもその投げやりな言い草に遂に女は声を荒げる。しかしそれすらもどこ吹く風というような風情で男は立ち上がり、次に「風呂に入る」と言いさっさと部屋を出て行ってしまった。



「…まったく…仕様のない人ね」



去って行った大きな背中を思い浮かべ、女は小さく溜め息を着く。
目を回して倒れてしまった少女は心なしか先程よりも苦しそうな顔をしていて、余りに心配になったため女は使いを呼んでその額に冷たい手ぬぐいをそっと置いてやった。






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