MAIN
□卵【こども】
1ページ/2ページ
「よっし。できたっ」
小さな魔人の肩を軽くはずむように叩いて。
少し遠ざかってその姿を確認すれば、大きな瞳を数回瞬かせて、リドルは半ば呆然と立ちすくんだ。
流石にいつまでも私の制服を巻いているわけにはいかず。
だからと言って、成長が早いとわかっていながら子供服を買い与えるのも憚られて。
ならばと、私の出した結論がコレ。
「うん、似合う似合う」
黒地にショッキングピンクの水玉模様。
私のお気に入りのキャミソール。
案の定それはリドルの体をすっぽりと覆い隠した。
さながらワンピースのように。
男の子だというのはわかっているけれど…この際背に腹は代えられない。
それに、褒め言葉になるかどうかはわからないけど、すごくかわいい。
いっそ悔しいくらいに。
リドルは、不思議そうにその裾を掴んだり、掌をめいっぱい広げてぺたぺたとあちこちを触ったりしながら、それが何であるかを理解しようとして。
やがて不機嫌そうに顰めた顔をこちらに向けた。
「やこー、なんだこれー?」
孵化してから約1日。
半日ほど前に初めて単語を発した口から、舌足らずながらも紡ぎだされた”言葉”に面食らって目を瞠る。
成長が早いのだとネウロは言っていたけれど…
この速度はまさに驚異的だ。
まさか誕生から1日で言語を操れるようになるなんて。
…しかも、なんだかちょっと偉そうな口調なのは遺伝なのだろうか…。
「服だよ。リドルが自分で服組成できるようになるまでの代わりに、ね」
リドルは、納得しない様子で頬を膨らませながら、キャミの裾を掴んでばさばさと動かし始めた。
ふと、その裾から少しだけ見えるか細い両脚で、よろめきもせずに一人立ち上がっているということに今更気付く。
この異常なまでの離巣性と早成性。
魔界とはそれほどまでに過酷な環境なのだろうか。
それとも、この『変種』の魔人のみにそぐわない酷悪の地なのだろうか。
だとするなら、同じ性質を持つあの緑眼の魔人は…。
「…って、こらこら!なんで脱いでるの!?」
ちょっと意識が逸れた隙に、小さな魔人はキャミの中に潜るようにして、布の束縛から逃れようとしていた。
私が手を掛けようとした瞬間に、キャミはするりと滑るように地に落ち、無惨にもくしゃりと潰れる。
そして、リドルはまたしても珊瑚色の肌を惜しげもなく目前に晒した。
…少しだけ慣れてきたな…悲しいことに。
「むずむずするー」
「むずむずしても脱がないの!ちゃんと服着てなかったら外出られないんだからね!?」
そもそも朝方、リドルが耳元で『なぞーなぞー』と騒いで叩き起こしてくれたものだから、外に謎を探しに行くことになったのが事の始まりだった。
外に出るならば、まずは服を着せなければならない、と。
私の教科書や参考書の問題でも満足するのだろうけど…それはそれで私も今後楽になって良いのだけど。
それでは私の実にならない。
今が楽でも、必ず後でもっと辛い思いをすることになる。
だから、謎はこれとは別に調達しなければならないのだ。
膨れて顔を逸らしたリドルを叱りつけ、もう一度キャミを持ち上げて『はい、バンザイして』と言えば、思い切り首を横に振って拒絶された。
「あー。そういう悪い子には『謎』あげないよ?いいのかなー」
「むぅ…」
わざとらしく突き放せば。
さすがにそれは嫌なのか、言い淀んで忌々しげに私の手の中のキャミを睨みつける。
しばらく唸りながら悩んでいたリドルは、やはり納得のいかない顔つきのまま、それでも勢い良くこくりと頷いた。
その頭をいい子いい子と撫でて、再度キャミを頭上へ持ち上げると、今度は素直に両手を揚げて着衣を甘んじて受け入れた。
裾まできっちりと着付けて、少しばかり乱れた栗色の髪を撫でつけて。
未だ不服そうに眉を寄せるその顔を覗き込む。
「ほら。いつまで膨れてるの。『謎』、探しに行くんでしょ?」
「なぞー!なぞたべるー!」
そのキーワードはまるでスイッチのように。
曇った顔は一転、眩しいまでの輝きを放った。
ぴょこぴょこと喜びに跳ね回る小さな魔人に、思わず溜め息が漏れる。
まったく、現金というか単純というか。
胃から生まれたような生き物だとぼんやり思う。
この小さな魔人も。
あの緑眼の魔人も。
…それから私も。
生物的に気が遠くなるほどかけ離れているはずのその距離が、妙に近く感じる瞬間。
噛み合わないはずの、解り合えないはずの感情が中和される錯覚。
『食』を前にした魔人と私は、こんなにも遠くて近い。
共通点と言うにはあまりに的外れ。
けれど根底で求めるものは同じ。
あるのはただ…
「やこー、はやくー。はらへったー」
底なしの食欲。
「はいはい。じゃあ出掛けようか」
私の手を引こうとするその手は小さすぎて、人差し指だけをやっとのことで握り締めてぐいぐいと引っ張ってくる。
まるで散歩を待ちかねた子犬のようなその様に、吐息のような笑みが漏れて。
小さな手を握り返して、今度は私が先を歩く。
…歩く。
…歩く…。
…歩…けない。
「…なんで歩かないの?」
いくら引っ張ってもびくともしない手の持ち主を振り返れば、全く悪意のない笑顔とぶつかった。
繋いでいない方の腕もこちらにうんと伸ばして、天使の声で言うのだ。
「だっこー」
少し甘えの混じった、けれど当たり前の権利を主張する物言いで。
(…本当に質が悪い…)
わかっていても、何故か逆らえないのだから不思議なものだ。
もしかしたら、魔人の笑顔というものには、そういった呪いが込められているのかもしれないとすら思う。
盛大に溜め息を吐き出しながら屈み込み、小さな魔人を抱き上げる。
子供体温を保つその体は、昨日よりも重みを増しているように感じられた。
(明日にはだっこできなくなってたりして…)
半ば冗談に思えないことを考えながら、もう一度リドルを抱え直し、部屋の扉を開け放つ。
「あら。弥子、起きてたのね」
途端に聴こえる、少し驚いたような耳馴染みの声。
部屋の扉の前に、まるで壁のごとく立ち塞がっていたその存在を、私はすっかり失念していた。
お母さんの存在を。
もはや事故としか言えない遭遇に、思わずドアノブを握りしめたまま固まる。
「なかなか下りて来ないから起こしに来たんだけど…あら?その子は?」
私に良く似た母の視線は、フリーズした娘ではなく、私の腕の中のリドルへと照準を合わせていた。
心臓が跳ね、じっとりと私の全身を覆っていた冷や汗が、一気に噴出する。
「い、いや!えーと…えっと…そう!依頼で!仕事の依頼でちょっと預かってるの!それだけだから!」
我ながら苦しい言い訳。
精一杯笑っているつもりだけど、口の端が自然と痙攣しているのを感じて絶望した。
「そう…探偵も色々大変なのねぇ…。でもこの子、なんだかネウロ君に似てない?」
「ネウロっ!?や、やだなぁお母さん…ちっとも似てないよ…ネウロの顔忘れちゃったの?」
「そう?そういえば髪の色はもうちょっと薄かったかしら?どちらかといえばあんたにそっくりね」
「た、たまたまだよ!たまたまっ!こんな髪色の人いっぱいいるじゃない!?」
我が母親ながら鋭い。
図星を差される度に肩を揺らしながら、なんとか誤魔化そうと言い逃れを考えるが、どれもこれもが苦しすぎて泣きそうになる。
「じゃ、じゃあ私急ぐから…」
こういう時は逃げるに限る。
というか、それ以外に道がない。
とてつもなく大きく感じる母の壁をすり抜けようと身を屈めた、次の瞬間。
「やこー、だれだこのおばさん?」
それまで沈黙を続けていたリドルの一言に、その場の空気が一気に凍りついた。
あまりのことに頭の中がホワイトアウトしそうになるのをなんとか堪えて。
ひどく重く感じる首を捻って母を見上げれば、私と同じように目を瞠ってリドルを見下ろしていた。
「おばっ…!?」
微かに体を震わせながら、絞り出すように出された母の声からは、僅かに怒りが感じ取れる。
生まれたばかりのリドルからしてみれば、その呼称は妥当であると思うし、高校生の子を持っているということを考えれば、なんら違和感のない言葉ではあるのだけど。
やはり女性…特に母くらいの年齢の女性からすれば、その言葉はタブーにあたるようだ。
「おばさんじゃないよ!お母さんだよ!私のお母さん!」
戦慄いたまま次の句が繋げずにいる母を刺激しないよう、慌ててフォローを入れる。
その言葉を以って、リドルに訂正を促すつもりでオッドアイを見つめれば、何かを納得したように一つ頷いて。
「じゃあばーちゃんか」
「ばっ…!?」
余計悪いわー!!
極上の笑顔でとんでもないことを言ってのけたその口をすかさず手で塞ぐが、勿論時既に遅し。
俯いて戦慄く母から滲み出る殺気じみたオーラに、思わず背中が粟立つ。
「お母さんごめんっ…!」
言い捨てるように放った謝罪の言葉を合図として、最早収拾がつかなくなってしまった修羅場を、猛ダッシュで駆け抜けて。
逃げるように玄関をくぐって、家が完全に見えなくなるまで、振り返ることもせず全力で走り続けた。