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□卵【どうぐ】
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ここ数日、リドルが「謎」を食べなくなった。

正確には全く食べないというわけではないけれど、少なくとも以前ほどがっつかずに、「残す」のだ。

だからと言って食欲がなくなったのかと言うと

「やこー、なぞー」

そんなことは断じてない。

「なぞー、じゃないでしょ。またこんなに食べ散らかして…。大好きな数学じゃないコレ」

リドルの足元に投げ出された本を手に取り、パラパラとページをめくる。

学者レベルの問題が続くその本は、どのページを開いても私には呪文か暗号にしか見えないのだが、これがリドルの大好物だった。

数日前までは。

買い与えればものの数時間、速い時には数分で全てを解き尽くして、その貪欲な胃袋を満たしていたというのに、ここ数日はどうにも様子がおかしい。

以前は隅々まで余すところなく解かれていた問題は、ところどころに空欄が目立ち、中には途中まで解いて放棄したものまであった。

好き嫌いが激しくなったのか、それとも…。

(何か病気…とか?)

食欲はあるのに食べ物を受け付けない。

私には到底考えられない状況だけど、他の人なら…まして人間ならざる魔人なら、あるいはありえるのかもしれない。

しかし仮にリドルが病気だったとして、人間と同じ病院に連れて行って、果たして事が解決するものだろうか。

問診をすれば、聴診器をあてれば、レントゲンを撮れば、その原因はわかるのだろうか。
薬を処方されれば、入院すれば、それで治るのだろうか。

ちらりと、いつの間にか私の膝上に鎮座して新聞をめくっている生き物を見やる。

形の良い後頭部から生えた捩れた角。
垂れ落ちた箇所から新聞を溶かしゆく強酸性の涎。

(…絶望的だなぁ…)

一体その中身がどうなっているのか、サイでなくとも気になるところではあるけれど。
恐らく、地上の技術ではそれを解明することは叶わないだろうことは容易に想像がついた。

(…やっぱり聞いてみるしかないか…)

やはり、魔人の生態に詳しいのは魔人しかいないのだろう。

正直、頼るのは癪だけれど、この際背に腹は代えられない。

「リドル。お父さんのとこ行くよ」

私と同じ栗色の髪を優しく撫でながら言えば、眩いばかりの笑顔がこちらを振り仰いだ。

「ちちうえのとこいくのか!?」

キラキラと輝くオッドアイ。
近くで見ると、それは本当に宝石のようで。

(おいしそう…)

思わずごくりと喉が鳴ったのに気付いて、頭を軽く振るって正気を取り戻す。

「そ。だから支度しようね」

気付かれないように、取り繕うように、無理やり笑顔を貼り付けて。
その脇下に手を入れて、膝の上の小さな身体を立たせる。

すっくと立つリドルの目線は、座る私とちょうど同じくらいの高さになっていた。
持ち上げた時の重さも、若干増したように感じる。
以前は踝あたりまでをすっぽり覆っていた、服代わりの私のキャミもまた、少し丈足らずになってきていた。

卵から孵化してから約1週間。

リドルは毎日、確実に成長を続けている。

その成長速度にただただ目を瞠りながらも、最近はそれが少し楽しみでもあった。

「うーん…服ちょっと窮屈になってきたね。もう少し丈の長いやつに着替えようか」

つんつるてんになってしまったキャミを見かねて。
クローゼットの中を漁り、ミント色のチュニックを見繕って『バンザイして』と言えば、大袈裟なほどに頭を横に振って拒否された。

「わがはいやる!」
「え。一人で着れるの?」
「きれるぞ!やこいなくてもできる!」

得意気に言い放ち、チュニックを私の手から毟り取ると、取っ組み合いの格闘を始めた。

(チュニックvs魔人…)

くしゃくしゃに持ったチュニックの入口を探して、闇雲に腕を通してみたり、頭から被ったりするものの、偶然など起こるはずもなく、それはどんどんと小さく丸まって。

結果はチュニックの大勝で終わった。

見事なまでに惨敗した小さな魔人は、手元に完成したバレーボール大の布玉を、眉根を寄せて忌々しそうに見つめ、ややあって腕ごとそれをこちらに向けてきた。

「やこー…」
「はいはい…」

溜め息を吐き出しながら受け取った布の玉の皺を伸ばし、いつも通りにリドルに着せてやる。

ひざ上丈のチュニックは、初めて着せたキャミと同様、小さな身体の踝付近までを覆って納まり、今のリドルにはちょうど良い服となった。

リドルはそれを確認するようにくるりと体を一回転させてから、落ち着いたのか無邪気に笑って。
私もそれに笑顔で応えた。

「よし。じゃあ出発ー」
「しゅっぱーつ!」

いつもなら、出かけると言えばめいっぱいに伸ばしてだっこをせがんできたその両腕は、今日は高々と上に掲げられて。

そのまま私の手を掴むと、散歩を待ちかねた子犬のように部屋を飛び出した。

低い位置から手を引かれ、無理な体勢のまま廊下を歩かされながら、ふと、違和感に気付く。

板張りの廊下に響いているのは、私の足音だけで、リドルの足音が全く聴こえないのだ。
体重差云々よりも、靴下を履いた私よりも、裸足のリドルの方が足音は良く聴こえるはずなのに。

不思議に思ってその足元に注目してみると、足の裏と床との間に、僅かだが隙間ができているのが見えた。

ふと、ネウロと出会った頃を思い出す。

土足のまま部屋の中を歩き回っていることを指摘したところ、靴の気配を消して歩く、魔界独特の歩行法なのだと言い張られた。

ついでに、靴には汚れがないから舐めてみろとも。

(つまり…浮いてるんだ…)

あの魔人も常時そうなのかはわからないけれど、少なくとも、リドルに関して言えばそうとしか考えられない。

今まで、移動する時は大概私がだっこしてたから気付かなかった。

あるいは成長したからこそ可能になったことかもしれないけれど。

(とりあえず、靴はいらない…ってことだよね)

リドルが自分で率先して歩き出した時、正直、用意していなかった靴の心配をしたのだけれど、これならこのまま出て行っても、見栄えはともかくとして問題なさそうだ。

リドルに気付かれないようにそっと安堵の溜め息をついて。

まるで犬の散歩にでも出かけるような気分のまま、事務所へと急いだ。
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